野良犬の生活

部活もバイトもやっていない堕医学生の暮らしを記憶するレポート

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只見線莫迦列車

  一 不安しかない
 九月の秋の大連休は、近頃はシルバーウィークなどという俗称をつけられて、だいぶ世間に定着した観があるが、いかんせん歴史が浅いため、その存在は私の生活には全くといっていいほどに根づいていない。そも、この連休がある時期は大抵が夏期休暇の最中であり、あえて連休があるということなどは意識せずに休養することができていた。今年も、暦を見るまで連休が九月にあるんだか十月にあるんだか分らなかったくらいである。
 現在私は週に二度、火曜と金曜に試験を受けるという生活をしている。その週二の試験を受けて合格点を取りさえすれば、それ以外の時間は当人の勝手に使ってもいいということになっている。だから、試験が毎週に控えているとはいっても、いまの暮らしは長期休暇とそれほど大きな変わりはない。そのため、祝日があっても連休があっても、それらの有難みを感じることは、それほどない。祝日であってもなくても、もともとその日は休みと決まっているのだから。
 しかし、秋の大連休があることで、火曜の試験が一つなくなることとなった。これにて、余計な事情が一つなくなり、久しぶりにもっともらしい連休を迎えることになった。連休になるのだとしたら、それなりに連休らしいことをしたくなる。そして私は旅行に出ることにした。日帰りを数回の形でも、どこかに泊まりの形でもいいからとにかく旅に出る。
 先日に、郷里・秋田の全鉄道路線を乗り潰したのであるが、せっかく新潟にいるうちに、当県の線路もできる限り乗っておきたいという欲も現れてきた。どこに行くかを考える以前に、どの路線に乗るかを決めて、実際にどこにいくかはその成り行きで決めればいい。
 時刻表と路線図とを順々に睨みながら思案した結果、果たして只見線乗車を目的とした旅程を組んだ。こうなると日帰りは現実的ではないため、途中沿線で一泊することになった。
 旅の始まりはこれまでは大抵が新潟駅であったが、今度は珍しい気分で越後線の白山駅から乗ることになった。白山は私の家から最も近い駅である。最も近いとは言っても、家からは歩いて二十分ほどかかるという中途半端な立地にある。しかし、事実家から最も近いので、最寄りだと言うしかない。なぜこの駅から始めたかというと、家から自転車で往復することができるからである。新潟駅には気軽な駐輪場がなく、旅行時に限らず、普段から自転車に乗ってはなんとも行きづらい。それに比べて白山には、適当な駐輪場がある。一晩くらいは置いていってもかまわない。ところで、私の学校では第一学年時には教養科目の履修のために、医学部の校舎とは別の校舎に通わなくてはいけない。その際、私は電車で通学していたため、最寄りの白山駅は毎日のように使っていたという過去がある。大がかりな工事を経て、あの時とはまるで異なった姿になっている。
 また私が白山駅を使うことになったのは、越後線に乗るからという理由もある。越後線は先の述べたように、かつて通学に利用していた路線であるが、全区間を通して乗った経験はない。これも乗り潰しておきたい。そしてもう一つ越後線に乗らねばならぬ理由があって、学生割引をできるだけ簡素に使うべく、最初の駅から鉄路をぐるりと一周するような旅程を組みたかったのだが、その中で磐越西線を使うこともあって、新津駅を二回使うことはできないから、信越本線を使うことは許されない。だが越後線を使って遠回りをすれば、穏便にぐるり一周の計画が組めるというわけだ。
 私がもともと乗るつもりだった列車は七時四十七分発吉田行だったのだが、当日、予想以上に早く目が覚めてしまい、それで家にいても仕方がないから早めに白山駅に向かったところ、六時四十八分の列車に乗れるみたいだったので、これに乗ることにした。これだと、寺泊で待ち時間ができる。
 沿線には、一年次の頃に頻繁に乗り降りしていた駅がある。第一学年は、私の大学生活、そして私の今までの人生で唯一無駄な一年間だったと言える。この一年で得た物はなにもなく、一方で失った物はあまりにも多い。私が日陰に生きる学生となってしまった契機は、明らかにこの年である。だから、この駅のことを思うと苦々しい。だが、だからといって、今の私がこの駅を感傷深げな顔で見つめると思ったら大間違いである。私は第一学年時の記憶をできるだけ抹消しようと努めている。その努力の賜物で、この駅は今や私にとって、何の関わりのないただの駅になっている。そのためか、私がチョコレートを食べているうちに、知らぬ間に列車はこの駅を通り過ぎていた。
 この日と翌日の概ね天気としては曇りの予報で、降水確率は微妙だが、雨は降らないと賭けることはできそうな数字であった。だが、朝から怪しかった空は列車が線路を辿るにつれて黒みを増し、関屋のあたりから雨がぽつぽつと降りつ上がりつを繰り返していたのが、吉田に着く頃にはザーザーの本降りになっていた。念のために折りたたみ傘を持参していたから、そういう意味では心配はないが、しかし旅中の雨ほど幸先を不安にさせるものはない。やはりブーツを履いてくるべきだったかと、両足を包む薄手のペタン靴を恨めしく見るようなときもあったが、吉田で乗り換えてみれば次第に空は明るみを見せ、雲間から青が覗き、光線も漏れてきた。その空の色に一転して喜んだりするのだが、しばらくすると再び雨が降ってきて、ぬか喜びと化した。それからも天候は転々とし、晴れと雨の周期を繰り返すのだが、私はその度に一喜一憂させられる。一体どちらの周期で固定されるのか、それはこれからの旅の気分を大きく左右することである。こういう時、大抵私は非道い目に遭うことが多いので、不安しかない。そのうちに、列車は終点寺泊に停まった。この時、周期は晴れの相に落ち着いていた。


  二 寺泊駅
 他県の知り合いや田舎の親戚などで、私が新潟に住んでいることを知っていると、話題として新潟のどこそこに行ったということをしばしば投げられるのだが、その「どこそこ」として案外とよく名前が挙がるのが、寺泊である。長岡市の海沿いにできた地域で、港の近くには鮮魚市場が集まった通りがある。確かに見どころの少ない新潟の中ではそこそこ観光に面白いところであるのは間違いない。私も数年前に級友と訪れたが、市場で買った鯖焼きを食べ、海鮮丼を食べ、果ては水族館に行ったりと、それなりに楽しく遊べた。
 さて、その寺泊の玄関口がこの寺泊駅となるのだが、先に述べたような市場だの水族館だの、多くの人が思う「寺泊」は駅から車で十分というように、結構離れている。だからこの駅で降りても、観光とは縁もなさそうな、ただ牧歌的な町がそこにあるだけである。これはちょうど、男鹿線の男鹿駅と観光地「男鹿」の関係と似ている。いずれにせよ、ここで一時間ほど待たなくてはいけない。
寺泊駅について調べてみると、ここには長岡鉄道大河津駅の旧跡が遺されていることを知った。私は廃線のマニアではないが、せっかくなのでかつて駅があった痕跡を探して時間を過ごすことにした。
 駅舎を出て、昔のプラットホームを探してみるが、左右の砂利道をそれぞれ見に行っても、それらしきものはどこにもない。そう遠くないところにあると踏んでいたが、どうにも見つけられない。目に入るのは、秋桜が咲いているのや、柵越しに停車している列車や現行の線路ばかりである。
 もともと廃線にこだわりはないといえ、このまま投げだしてしまっては自分がここに来た甲斐がなくなるようで、どうにも面白くない。たとえば駅舎内に関連の展示や簡単な案内があればよかったのだが、そういうものは何一つない。そうでなくても、待合に長椅子数列と申し訳程度の観光案内しか置かれていないというのは、一般的な駅の基準からして、あまりにも寂しい。
 駅の記念スタンプを押すついでに、もういっそのこと駅員に尋ねてみることにした。
「そういえば、ここに昔の駅のホームがあると聞いたのですが」
「あります」
「それはどこに」
「うん、いま電車が停まってるからなあ。見えるかな」
と駅員は歩廊の方向を窺っている。
 私は今まで駅の外を探していたが、この様子だと、旧跡は歩廊から見えるところにあったらしい。これでは、いくら外を探しても見つからないわけである。
 駅員は室を出て、ひとり歩廊を進んでいく。何も言われなかったが、これは付いていくべきだろうと思い、そのようにする。程なく、我々は歩廊の端の端に至った。駅員が、線路を隔てた向こうのホームの方を指して、
「ほら、あそこの石垣のところで、斜めになってるのがあるでしょ」
「ん。どれです」
「ほら、あの黒い石垣が一個二個ときて、次に斜めになってるでしょ」
「え」
「向こうのホームの、石垣がね。ほら、斜めになってますね」
「いや、ちょっと」
「それがね、前は向こうのホームに行くのに、線路を渡っていたものですから、その時の名残りなんです」
「あ。そんな感じだったんですね」
「斜めになってるところがね。ちょうど改札を出て、すぐ真ん前から線路の上を歩いて向こうに渡ってました。もともとよく使うホームは向こうのだったものですから。今もそうだけど」
「成程」
「で、その向こうに鉄柵があるでしょ」
「ありますね」
「そこにあるのが今の越後交通、昔で言うところの長岡鉄道。そのホームの跡ですね。いわゆる、チンチン電車で」
と、場が昔のチンチン電車の話題になったところで、私にはまだ斜めのところということからして判然としていない。何度も説明させて煩わすのは申し訳ないから、この場面は適当に知ったかぶっておくことにしていたが、どこをして斜めのところなのか一向に分からない。だが、駅員の説明も落ち着いてきた頃に、何気なく向こうのホームを見てみると、ついにそれらしきものを認め、パズルの最後の一片をはめこんだような思いをした。私は向こうのホームの上のあたりばかりを見ていたが、駅員が石垣と表現していたものはホームの土台、その側面に付着しているものだった。たしかに、それが連なって連なって、途中で地面に向かって斜めに下っているところがある。おそらく、これが斜めのところなのだろう。
 駅員から色々と話を聞かせてもらった。しかし、まだ待ち時間は残されているので、あとは素直に待合で過ごす。これからの調整をしてみたり、屋内にまぎれこんだとんぼを観察したりしていたが、時おり他の利用者も来るので、無関心を装って気にかけてもみていた。
「あれ、今日学校なの」
「いや、学校じゃないけど、○○○(一度では聞き取れないほどに聞き慣れない横文字)ってイベントがあって」
「へえ。学校なんてなさそうなのに新潟に行くなんて言うから」
と、駅員との顔馴染みらしい若い女性もいた。それだけでなく、片田舎の静かな駅に似つかわしくないほどのおめかしをして、行き先は新潟という若い女性がやけにいた。私はさっき、その新潟から来たばかりであるが、この日はそういう催事でも開かれるのだろうか。そうであっても私にはまるで関係がない。
 手持無沙汰に駅内の時刻表を見てみる。次に私が乗る列車、八時五十四分発柏崎行は、土台に石垣が貼られた向こうのホームに停まる。待合にいても仕方がない。歩廊で待っている方が旅の気分に浸れるだろう。駅員に声をかけ、改札の内に入る。かつては線路に下りて向こうの岸に渡っていたという駅員の話であったが、今は高架ができていて、天を渡るような仕組みになっている。小さな窓が等間隔に貼られている高架の通路は、やけに薄暗く、閉塞的である。
 この頃になると空はからっと晴れて、日差しも強く差し込むようになってきた。朝の慌ただしい時間を経て、いよいよお天道様も本腰を入れて活動を始めたといったところか。だが、晴れてくれればそれに越したことはないとはいえ、かといってここまで日差しが強くなってしまうと、それはそれで嫌な感じがする。
 鉄柵の向こうに目をやれば、かつての長岡鉄道大河津駅のホームの残骸が遺されているのが見える。草木が鬱蒼と生い茂っており、中には大地から歩廊を突き破って伸びているような木々もある。一時は人の足として活用されていたものだが、今の緑々した姿は完全に人の手を離れた自然物である。
 待合室で佇んでいる。出入り口の壁にかまきりがいて、久しぶりに見た感じがした。要所要所で小さなくもや虫などが動いている室の内壁には、伝統的な相合傘の落書きが数点され、当然、その下には男女のつがいの名前が書かれてある。駅前の風景を見る限り、これといった娯楽のなさそうな片田舎の町である。ここに住む学生は、こういった方法で日々を過ごすのだろう。
 間もなく電車がくる。愛用の軍用のリュックサックを背負って歩廊に出る。リュックには、とある事情で持参した酒の瓶やら何やらが入っているため、いつもより余計に重くなっている。


  三 柏崎駅
 私を乗せた列車が線路を滑りだした。車内の座席は対面式の長椅子となっている。私は窓外の景色が流れていくのをただぼんやりと眺めているのが好きなので、長椅子形式は景色が見づらくてあまり好きではない。
 越後線は、線路図だと新潟県の日本海側に沿って伸びているように思えるが、実際は山間をひたすら走っている。沿線に目を惹くものはない。途中に出雲崎という駅がある。出雲崎はかねてから関心のあった町で、この旅行でも最初は出雲崎に立ち寄るような計画を立てるつもりが、私が思い浮かべる「出雲崎」は、駅から歩いて四十分という場所に立地しているので、只見線での余裕を優先して諦めた。
 結局、海が少しでも姿を現すことなく、九時四十七分、列車は終点柏崎駅に到著した。次は信越本線に乗って宮内に行くのだが、その列車は柏崎を十一時三十九分に発つ。ここに十分すぎるほどの待ち時間を得た。
 駅舎を出てみれば、外は思ったよりも雨足が強くなっている。柏崎に大した用事はなく、強いていうなら早めの昼食を摂るくらいだったので、御膳にちょうどいい時間になるまで、待合で過ごしてもよかったが、ひとまず御不浄によって用を足して出てみると、雨は止んでいたので、ちょっと通りに出てみる。
 駅前は、よくある屋根付きの商店街になっていて、天候を気にせず気軽に歩ける。柏崎駅前のいいところは、くだらぬチェーン店がなく、食堂にしろ喫茶店にしろ、個人でやっているような店がとても多いという点である。少し格式の高そうな歴史ありげな菓子屋があり、明治饅頭というものを推している。見過ごしてそのまま歩いてみると、別の店でも明治饅頭を推していて、どうやらこのあたりの名物であるらしかった。いい頃合いで引き返して、最初に見かけた格式高そうな菓子屋に入った。ちょうど小腹が空いていたこともある。
 同時に入った観光者風の男性が、何やら急いでいるようにせかせかと明治饅頭の箱を買っていった。やはり名物に間違いなさそうだが、私には余裕があるので急いで求めたりはしない。たとえ時間がないとしても、あからさまに急いでいる雰囲気を出すことはしないのだが、それはともかくとして、明治饅頭以外にも和菓子から洋菓子まで色々と揃っていたので、しばらく店内を見て回る。明治饅頭一つと、季節品のさつまいも饅頭一つ、そして当地のマスコットキャラクターを模したクッキーを購入。店内にテーブルがあったが、飲食をするためのものという感じはしなかったので、ためしにあそこで食べていってもいいですかと聞いたら、別に御自由にどうぞ、と笑われた。明治饅頭はいわゆる薄皮饅頭というものだろうか。たっぷりの白餡が薄皮に包まれているが、思ったよりも固くて噛み応えがある。さつまいもの方もまた然りである。最後に食べたクッキーが軽い甘さがあって一等食べやすかった。
 一端、駅に戻る。とある事情で翌朝の食事を手に入れておきたかったので、売店で求めた。それからは待合に落ち着いていようと思ったが、どうやらそろそろ柏崎に越乃Shu*Kuraが到着するらしいので、歩廊に入場して出迎えた。この特別列車はここから宮内の方向に走るので、いま思えばこれに乗るということもできたわけである。
 そろそろ昼食を摂ってもいい頃と思って外に出てみると、間の悪いことに再び雨が降り出してしまっている。先ほどのこともあるから、また自分が御不浄に寄って出てみれば止んでいるかもと思ってやってみるが、そんな神通力が私にあるわけがなかった。折りたたみ傘を出して歩いていくが、風があるために傘を差すだけではどうしても防げぬ曝露があり、雨は横から降っているのではないかとも思われた。
 食事は駅近くのホテルの食堂で摂るつもりでいた。この食堂には数年前に級友と立ち寄り、当地名物の鯛茶漬けを食べた縁がある。この度も鯛茶漬けが食べたかった。
「こんにちは」
「あ、すいません、店は十一時からなんですよ」
―ただいまの時刻、午前十時五十九分。
「そうですか。じゃあ少しだけ待たせて下さい」
「はい、ではホテルのロビーへどうぞ」
などと言われたのでその通りにしたが、私が店を出て一分も経たないうちに、食堂は開店となった。あの一分足らずの間に、何か、お客には見せられないような儀式でも行われていたのだろうか。
 隅っこの席に座り、お品書きをちらと見てみるが、私は最初から鯛茶漬けを食べる気でいたから、その行為は形だけのものである。同じ鯛茶漬けでも、安いものと高いものがあるが、私は高い方を頼んだ。列車の時間まで四十分ほどあるが、なんとなく発車に間に合わないような気がして、待っている間もそわそわとしていたが、幸いなことに料理はすぐに運ばれてきた。だが、一度そわそわしてしまうと、しばらくその心境が続いてしまうので、最後までそわそわせかせかと落ち着かずに食事をしてしまったことはもったいない。
 鯛茶漬けは鯛を焼いてほぐしたものの他に、焼き鮭、いくら、岩海苔、しんじょうのようなものなどが乗っていて、ごちゃごちゃして見た目は汚いが、いかにもおいしそうだ。それに温かなお茶を注ぎ、わさびを溶かしていただくのである。しかし私は必ずしも空腹を覚えているわけではなかった。時間もまだ早いし、先程には饅頭二つとクッキー一枚を平らげている。中でもさつまいもの饅頭、あれは効いた。そういうわけで、砂を噛むようなといえば行き過ぎだが、せっかくの鯛茶漬けを少し無理をして食べることになった。他のお客はどこも集団で、ヤイヤイと言葉を交わしている。その中で、店の端でひとりで無理無理と食事を進める自分がみじめに思われた。
 店を出ると雨は小降りになっていた。傘を差すほどではないさらさらとした雨で、まるで霧が上から落ちてきているようである。
 十一時三十九分、信越本線長岡行の列車が動き出した。途中、何の変哲もない農村の合間を駆けていくが、灰色の曇り空の下に薄い霞もかかっていて、妙に神妙としていて、どこぞの辺境の土地かと見まがう。長岡が近づくにつれて窓からは平凡な住宅地ばかりが認められるようになる。
 長岡の一つ手前、宮内で下車をする。無駄に大きく、それでいて中身は何にも詰まっていない、燕三条のような駅である。宮内は上越線の乗り換え駅である。私もこの用途で降り立ったのであるが、空き時間に構内の案内を見てみると、いろいろな商家の住宅なども残っていたり、鏝絵が有名だったりして、思ったよりもこの町自体が面白そうだった。
 次の列車を歩廊の長椅子に座って待っている。急に雨が激しくなったと思ったら、数秒後にはすっかりと日差しが覗いてくる。十三時八分、上越線越後湯沢行の列車に乗り込む。上越線などと、いかにも田舎じみた路線名であるが、車内には学生や会社員風の人たちの姿も多く、案外と混みあっている。私は小出を目指す。ここからついに只見線の鉄路に乗り換える。


  四 只見線
 小出駅に着く。乗り換えの時間は短いので、急いで只見線のホームへと歩みを進める。間もなくの発車を控える只見線の列車は二両編成。特に装飾などは施されていない車両が一両と、真っ赤に包装されて目を惹く車両が一両とで成っている。真っ赤な方は特徴的なものという予感はするが、前面や側面に「縁結び」などと書かれていても、ちっとも意味が分からない。
 かねてから只見線は秘境路線という噂を聞いていたが、前にも後ろにもたくさんの乗客が集まっていて、秘境に行くようには思えない。もともと観光的な側面のある路線だったのかもしれないし、大連休の効果もあるだろうから、こんな状況になってしまっているのだろうか。赤い車両に乗り込んだが、ブロック座席はすでに埋まっていたので、仕方がなく最後部の長椅子に陣取った。
 十三時十一分、只見線只見行の列車がゆっくりと線路を滑り出した。
 灰白色の空の下、しばらくはどこにでもありそうな農村を通り、いかにも秘境らしい景色には出会えない。しかし、垂直にも見えるほどに急峻な緑の山肌などは、どこか現実離れをしていて、これから辿るだろう辺境の世界を要所で予感させてくれる。
 それにしても、同車両のブロック席の集団が煩くて、旅気分に浸ることができない。停車する駅ごとに外に立つ住民と手を振り合ったりしているが、このあたりに住む者たちの軍団なのだろうか。それだけでなく、各駅で乗り込む人とも一々挨拶を交わして合流をしている。年齢構成もよく分からない。高齢者ばかりであったら何かのツアーだろうかとも思えるのだが、中にはちょっと若い人の姿もある。どうやら彼らは、ただの旅行者の集団ではない。正装をしている人もいるところを見ると、おそらく何らかの組織である。
 私のような、彼らとは一切関係なく、少しも感情移入できない乗客もいるというのに、大声で騒ぎ車内をうろつき、そこかしこでアルコールに興じている。通路を立って塞いでいる女性に関しては全く下品で閉口してしまう。傍らに人無きが若しとはまさに彼らのことである。組織の一員が名札を付けていたので、よく見てみると、「魚沼市」などと書いているのが見えた。
私は、例えばひとりの人間が自棄なことをしていたら、おそらく面白く思う。それは尊敬に値する生き方である。決して咎めるべきことではない。だがしかし、組織ぐるみで横暴をやるのは、私は心の底から大嫌いである。ただ人数が多いというだけで、まるで正義は自分たちの下にあるような顔で勝手に振る舞っているのは、全く性質が悪い。そういう輩はひとり残らず射殺してしまいたいような気持ちになるのだが、それではあたりにたくさんのゴミが残ってしまって面倒なので、数の弱者たる我々は仕方なく黙って耐えているしかないのだ。
 彼らのせいで、最後まで不愉快な旅だった。
 大白川駅を過ぎて、あとは終点只見に至るまでといった段では、ついに只見川が窓外に現れ、川にかかる質素な吊り橋や川の流れに浸食された奇岩などを認めると、景色はいよいよ秘境じみてくる。あと一駅というのにこの道程がとにかく長く、時間にして三十分もかかる。途中で、長いトンネルを数本経てやっとのことで只見駅が見えてくる。
 するとどういうわけか、歩廊はもとより駅舎にも驚くほどの人々が集まっていて、こちらを出迎えているではないか。和太鼓の演者やマスコットキャラクターなども揃って、盛大なお祭りのようである。秘境路線のくせに車内混みあっていることからしておかしいと思っていたが、車内を占拠する悪の組織の存在、そしてこの只見駅の有り様だから、どうやらこの日は大掛かりな催事が開かれていたみたいである。他の乗客も疑問に思ったのか、例の悪の組織の構成員に尋ねているのを盗み聞きしてみると、そもそもこれは私が乗っている赤い列車の催事であるらしい。そしてこれから、何かの儀式が行われるのだそうだ。
 只見駅の歩廊に降りる。正装の旦那衆からカメラを抱えた記者、あるいはただの老婆まで、実に大勢の群集から「ようこそ」「ようこそ」などと歓迎されるのは決して悪い気はしない。ちょっと踏んぞりかえって歩いてみるが、誰ひとり私のことなど気に留めることはなく、これから始まる儀式の次第ばかり気にしている。
 催事は気がかりであったが、私はこれから代替輸送のバスに乗らなければならない。その乗り換えの時間は短いためか、バスを利用する一般客は急かされてバスへと案内される。駅の記念スタンプを押す間も、キャラクターの写真を撮る間も与えてはくれない。

 只見線は数年前の大水のために、かなり長いこと、只見―会津川口の区間が運休となっている。列車が走らなければ生活に困る住民もいるために、この区間では代替バスが走って、途中の各駅を回っている。私は会津川口方面を目指すべくバスに乗り込んだが、この車内が大勢の老爺老婆でいっぱいであり、人生のどんづまりという意味ではたしかに秘境に思えなくもない。いちばん前の四列座席の通路側の一席に座った。こういう混みあった空間だと、私の愛用の軍用リュックサックは煩わしいだけである。
 隣の座席に座っている年配の女性が、私に話しかけてきた。
「ああ残念。あなた、Hさんと会えましたか」
「Hさんって誰です」
「テレビに出て『今でしょ!』とかってやってる人ですよ」
「H先生ですか。いや、え、H先生いたんですか」
「なんかイベントがあって、いらっしゃってるみたいですよ。あの列車のね」
「あれは私が乗ってきた列車ですよ。ひょっとしてH先生あれに乗ってたってことですかね」
「そうかもしれません」
「列車のなか歩いたりしたんですけど、ちっとも気がつきませんでした」
「今日はイベントがあってねえ、いつもはこんなにたくさんの人はいないんですけどね」
「とても賑わっているようです」
「あなたこれからどちらに」
「早戸温泉に」
「早戸温泉というとT(宿舎)ですね」
「Tです」
「Tは私もよく行くんですけど。一回だと五百円くらいですけど、私なんかは回数券を買ってね、一回三百円くらいで入れるんです」
「へえ」
「四年前の災害で電車が使えなくなって、それであの、補助金をもらってそれで温泉に入ったり、ゲートボールなんかをしてるんです」
「ゲートボール」
「四年前の災害は本当にひどくて、このあたりは―いま只見町なんですけど―道路のところまで川の水が上がってきたらしいですよ」
「結構広い川ですけど、その水がここまで上がってきたのですか。それはひどい」
「今だとほら、まだ浅く見えますけど、それが道路のところまでね」
「にしても、早く鉄道が復旧してくれればいいのですが」
「ねえ。でも難しくて、四年前の災害で電車が使えなくなって、それで今度は原発の事故があって。いまはこうやってバスを走らせてますけど、工事にはお金がかかるから、バスを走らせた方が安上がりなのかも」
「成程」
「このあたりだと、新潟の方からも人がいらっしゃるんですけど」
「私はその新潟から来ました」
「そうでしたか。新潟から早戸温泉に。早戸温泉っていうと降りるのは」
「早戸ですかね」
「早戸ですか。たしかにTはそこから、歩いて十分くらいですかね。でもあなたは若いから五分くらいかも」
「いやいや」
「ほら、いま川はあんなに浅くなってるでしょ。でも―いま○○町(失念)にいるんですけど―四年前の災害のときはね、このあたりも川の水が道路まできたんですよ」
「本当におそろしいことですよ」
「それで、あなた今日はどちらから」
「新潟です」
「新潟からですか。それで今日は」
「早戸温泉に」
「早戸温泉となると、Tですか。私も時々行きますけど、あそこは、とても、いい温泉で。ちょっと茶色く濁ってるんですけど、とてもいい効能で。あせもと痔に。痔に効くんですよ。痔に」
「あ、あれが鉄道の線路ですか。すごいところ走りますね」
「ねえ。四年前の災害では道路まで川の水が上がってきて、このあたり―いま○○町(失念)なんですけど―ここらでは家も流されて死んだ人も出たみたいですよ」
「うわ、鉄橋が途切れてますよ。ひどいなあ」
「そうですね。四年前の災害では道路まで川の水が上がりましてね、このあたりは―○○町ですけど―たしか死者も出たんじゃないかなあ」
こうして、只見から会津川口までバスに揺られるおよそ五十分の間、私は隣の女性から何回も同じ話を聞かされ、時に同じことを聞かれて過ごしていた。早戸温泉のくだりは五回くらいは聞いただろうし、「四年前の災害では道路まで川の水が上がってきた」という話に至っては、大袈裟でなく十回以上は聞いたような気がする。私はその度に、ひどい、ひどいと答えていた。その他、「早戸温泉の周りは何もないから食事はどうするのかが心配」をはじめとした数々の小話も、少なくとも二回ずつ聞くことになっている。
 dementiaがあったのだろうか。しかし、dementiaにしては受け答えが快活であったし、私の言葉に対する返答も中々とんちが効いていて面白かった。私がこれまで出会ったdementiaの患者さんは、せいぜい四、五人というところだが、どの人もどこか遠くを見ているように恍惚としていた。だが、この女性はきちんと目の前のものを見て話をしている。何度も同じ話をするのは、話題がなくて沈黙してしまうよりはいいだろうという気遣いからかもしれない。
 乗合のバスは各駅を巡る仕事の末、終点の会津川口に到著した。ここから会津若松方面へは再び列車が出ている。例の女性は駅の近くに家があるということで、ここで別れる。面白いお話を聞かせていただいてありがとうございました、という私のさよならの挨拶は本心からである。
 会津川口駅は歩廊から只見川の広大な流れを望むことができるという噂だったが、ちょうど川の方向に停車中の列車があって、川が見えない。私が乗るのはこの列車ではなく、別の車両なのだが、乗り込んでもやはり件の列車があることによって視野が遮られて、川が見えない。
 十五時二十七分、只見線会津若松駅が会津川口のプラットホームを発ち、そしてだんだんと遠く離れていく。
 列車が走りだせば、やっと見えてくる只見川。川とはいうが、流れがあるようには見えず、ただ水がなみなみと満たされているだけのような穏やかさで、流域の広さもあってどこか母性的な面持ちである。この広大な河川の水位をほんの少しでも上げるには、よほど多くの水を注ぐ必要があるのではないかと思うが、そこをいくと、四年前の水害は相当にひどいものだったんだなと分かる。
 只見線に乗車してから、秘境路線とは思えぬ慌ただしさの中にいたが、ここにきてひとりで車窓の移り変わりを眺めることが叶うと、やっとのことでひとり旅の情緒が滲んでくる。
 発車から十五分強で早戸駅に着く。ここが、この日私が最後に降りる駅である。


  五 早戸温泉投宿記

 福島・早戸『鶴の湯』

「まあ、聞いてけろ、喋らしてけろ」とお婆ぁが口をあける。
――切なっぺ。おどなしくしてりゃ、若えものにめごがれるに、へらずば
かりこいてって、跡取りが云うだ……

ものの本に「この土地は人情こまやかにして、風光うるわしく……」とあり
確か「愉快な主人と、恋女房と、主人のいうところの親切なばあさんがいる
旅籠がある」と、そう念をおしていた。

会津若松から只見線鈍行で二時間余、只見ラインの中ほど、宮下ダムの人工
湖のほとり。捨てられたキャラメルの空箱とみまがう旅籠の一軒、早戸・鶴
の湯。そこの湯舟にわたしたちはとある日、ザブンと音立てた。


お婆ぁの愚痴はまだつづいている。跡取りの保険金のこと、鬼女(跡取りの
後妻?)の婦人学級のこと、そして「養老院さ寄付すんべえ按配」の金の次
第……ぐちぐち小一時間。と突然こちらに「ニシらも聞いとけ。ハッハハ
ハ」

これはたまらない。「それじゃお先に」部屋にたどいついてひと心地。と、
何ということ!「ニシらと遊ばせてもらうべぇってや、ヒッヒヒヒ」とお婆
ぁの顔が四つ。お茶やせんべいがまわった。酔いはいやがおうにも高まった。

〽山だって 登りつめれば 下んねなんね
 下り始めりゃ たちまち谷よ 谷じゃ
棺箱が 蓋開けて待ってる


「桃源行(画・つげ義春、文・正津勉)」より



 十五時四十四分、只見線の中ごろ、早戸駅の歩廊に降り立った。一路、会津若松へ急ぐ列車は、プシュンと戸を閉ざしたかと思えば、そのまま滑り行く末、トンネルの暗闇へガタゴトンと消え去った。早戸は歩廊脇に小さな待合小屋が一つ、侘しげに建っているだけの殺風景な駅だった。森閑とした歩廊からは、只見川の広く豊かな水面を望む。あたりも薄暗くなってきた頃だと、川本来のエメラルドグリーンもやけに陰湿に映って見えるようだ。
 朝からの旅で疲れている。早いところ宿舎に落ち着きたい。今度の宿は、早戸温泉のTを取っている。親切にも、Tへの方向を示す矢印と「徒歩10分」の看板があったため、それに従い大きな道路に合流する坂を上っていく。あの看板が指す方に歩いてすぐにトンネルに対面する。他に道もないところを見ると、どうやらこれからこのトンネルの中を進まねばならないらしい。
 トンネルの中を歩くのは初めてではないが、いつも恐ろしい思いをする。歩道があるので安全性に問題はないけれど、トンネル内に響く自動車の走行音が恐ろしい。一般に車が走る音は何てことない日常音の一つであるが、あの空間の内部だとだいぶ感じ方が変わってくる。ゴゴゴゴと音が小さいうちはまだいい。それがゴウゴウとだんだんと大きくなってきて、そろそろ後ろの方から車が来るなと思ったら、まだ来ない。音はさらに大きくガアーッと響き、耳が痛いように思えてきてもまだ来ない。ひたすらに増長し続ける轟音に、いつ越されるのやら今か今かとドキドキして歩くが、果たしてその音は、後ろではなく前からの車が飛ばしているものだった。トンネルの中では、聴覚における遠近感も方向覚も遮断されてしまう。
 やっとの思いでトンネルを抜けると、前方にTの看板が見えてきて、私に右折を促した。素直に曲がって大きく蛇行した坂を下りていけば、そのさらに下方にそれらしき建物が認められる。広大な只見川のほとりに、実に静かに佇んでいるTの全貌である。

 Tは温泉旅館ではなく、温泉施設である。主に日帰り入浴の提供を行っているのだが、宿泊用に湯治棟も併設されている。湯治棟というからには、施設から料理が供されるわけもなく食事はすべて自炊で、寝具や家電は揃っている代わりに、素泊まりのために浴衣やタオル、洗面用具なども持参しなくてはならないときている。だが何より、宿代が格別に安いので、私は泊まることにした。
 たった一晩の素泊まりは、特に面倒ではない。タオルは自宅で要らなくなったものを数枚持っていって、使ったものは向こうで捨てればいい。洗面用具は、例えば歯ブラシなどはホテルで貰ったものを持っていけば、これも使ったものから捨てればいいだけのことである。寝巻きやその他必要なものは流石に捨てていくことはできないが、それくらいは大した荷物にはならない。食事の懸案であるが、実はTは施設内に食堂も備わっているので、そこで簡単に済ますこともできる。売店などもあるだろうし、つまり案外と如何様にもすることができそうなのだ。あとは部屋で酒盛りでもすればそれで十分である。事実、私は晩酌用を考えて、新潟の酒と麦酒を愛用の軍用リュックサックに詰め込んできた。
 湯治棟の玄関に入ると、いきなり世話役のお母さんと鉢合わせた。
「ここは初めてですか」
「はい」
「Tを利用したことは」
「いえ全く」
ふと横を見ると、車の積み荷―色々の生活用品や食品等―を玄関脇の縁側に次々と移している老夫婦がいる。彼らはこの日から、辺境の湯治場での長逗留を始めるようである。
 世話役のお母さんに湯治場の使い方や装備などを説明されつつ、棟内を案内される。炊事場は広く清潔で、コイン式のガスコンロがあり、炊飯器は各部屋分の用意がされている。さらには調理器具や食器類もたくさん揃っていて、思っていたよりも使い勝手がよさそうであった。
 私の部屋は階段を上がって左手、どこぞの合宿所を思わせる平々凡々な廊下の奥「鶴の間」である。Tを訪れて、泊まる部屋が「鶴の間」というのは、最高級のもてなしのようにに思えて気分がいい。そうでなくても、もともと早戸温泉は鶴に深い縁がある。伝説的な役割を有つ鶴の名を冠した部屋に寝起きできるというのは、軽薄な一宿客には釣り合わない好待遇である。
 廊下にしてもそうだったが、部屋も清潔に保たれている。冷蔵庫の設備もあるし、空調は新潟の私の家のよりも新しくて良い機種ときている。「湯治場」という言葉から生まれる想像とはいい意味で離れていて、ここまでで何も心配に思うところがない。旅装具を解き、冷蔵庫に今晩のお供や、柏崎で調達しておいた翌日の朝食を入れていく。荷物の整理もつき、人心地がついたところだが、落ち着く間もなく早速のことで湯に浸かりに行く。湯治棟にも内湯はあるが、Tの最大の魅力は本館大浴場の、只見川のパノラマを眺める露天の湯である。
 湯治棟のアルミ戸からサンダルに履き替えて屋外に出る。本館へと導く木造の屋根付きの通路に、既視感を兆した。これはあの「桃源行」ではないか。つげ義春先生が歩いた道。私も今、早戸の湯舟にザブンと音立てようとしている。
 エレベーターで下りたところに、新しい本館がある。休憩室や小さな売店などがあって、いかにも日帰り入浴施設然としている。湯治場の宿代もここの受付で精算する決まりになっているのだが、翌日に本館が開いてチェックアウトができるのは午前十時からで、これだと朝の列車の時間に間に合わないので、今際の内に支払いを済ませておく。
 大浴場にはまず木造りの長方形の内湯が一つ、なみなみと評判の薬湯を張っている。早戸の源泉は熱いと聞いたが、そのために湯冷まし用の浴槽があり、そこから湯舟に温泉が少しずつ注ぎこまれている。旅程の汗を軽く落として第一に向かうのは、件の露天である。扉から屋外にでて階段を一段一段と下りて行った先に、茶色く濁ったお湯で満ちる露天の湯舟が、ほとんど只見川に突き出るようにそこにあった。人三人が身を沈めるのがやっとの小さな岩風呂だが、そこから眺めるは広大な只見ラインとそれを囲む緑の山々である。何も視界を遮るものなく、緑青の水面で視野がいっぱいになる。
 只見川は本当に静かで、果たして流動というものがあるんだかないんだか分からない。時おり、魚が川面に浮かんだときに、白い波紋ができては広がっていくのが見える。波紋はできて広がって、やがて消えていく。その行程は川のそこかしこで見られる。
静かである。温泉が湯舟に注ぎ込まれる音、わずかな体動にも伴ってお湯が跳ねる音、名湯に身体を浸ける男たちの嗚咽、自然界でも、名前は知らないがとにかく鳥が鳴いている声や、ちょっとした風にそよいで枝葉がこすれる音など、至るところで様々な音が生まれているにも関わらず、無音にも思えるほどに静かである。ありとあらゆる音を、川や山がすべて吸収しているかのような静けさが、この時を支配している。
 私は湯に浸かりつ上がりつを繰り返してしぶとく粘っていた。私は温泉は好きだが熱い湯が苦手ですぐに火照ってしまう。そういう場合は湯舟の縁にしばらく胡坐をかいて、川面をなでるような風に身を当てればいい。目の前に川と山ばかりが見えるところで、素っ裸で座っている。何も有っていないということが、こんなにも頼もしく思えるとは。
 夕食をどうするかと考えるが、売店に手作りのおにぎりだとか焼きそばとかもあったりして、特におにぎりには胸を惹かれる思いだったが、温泉施設の休憩室や、部屋で食べても侘しいだけな気もして、結局食堂で摂ることにした。受付で食券を求め、それを細い通路の果ての食堂に持って行く。食堂というからにはそれなりのものを期待していたが、その実態は、まるで駅の立ち食いそば屋に回転椅子を取り付けただけと言うべきのチンケなものであった。私以外にお客がいないのがさらなる不安を誘う。これだったらおにぎりを食べた方がだいぶ良かったと思ったが、注文したカレー・ライスは案外おいしかったので、これはこれでいいことにした。本館の売店でアイスクリームを買って部屋に戻る。
 湯治場なのだから、押し入れから布団を出して敷くのも自分の仕事である。せっかくなので敷布団を三枚重ねて敷いてみた。新潟の麦酒を飲みながら明日の用意をする。明日は一寸喜多方を見物してみるつもりでいたが、どうやって過ごそうか決めかねている。喜多方については観光案内書を持参していたが、それを眺めていてもよく分からない。そもそもそれほど楽しみにしているわけではなかったので、実際にそこに行ってから適当に歩き回ればいい気もする。
 夜の只見川はどう見えるのかが気がかりだったので、しばらくして再び本館の湯にザブンと音立てに向かった。本館への木の通路は夜の灯りにほのかに照らされると、いよいよ「桃源行」じみてくる。
 露天に入るが、案の定、山間の暗闇の中では只見川の広大な流れも、少しも認めることができない。何となくの気配で、そこにあることが分かるくらいである。露天の湯舟を共にした男性から「私の両親は両方ともこのあたりで生まれ育ちましたが、将来のことや教育のことを考えて、私が生まれるときに会津若松に出た」という話を聞いた。曰く、「このあたりは時々遊びに来るにはいいところだけど、ずっと暮らすのはちょっと」とのことだが、秋田県の田舎町で生まれ育った私には、この男性の言わんとしていることが何となくでも分かる気がする。田舎に暮らしていれば、自分の人生におけるあらゆる判断尺度が、田舎町という小さなスケールを超えることができないままで終わってしまう。
 湯上りに炊事場に寄って、晩酌用のお猪口を拝借しようと思った。そもそもお猪口が置いてあるのかが気がかりだったが、実際はいろいろな種類のものが並んでいるのが微笑ましい。お燗用の一式が揃っているのも可笑しい。
 新潟のお酒を飲みつつ、今度新しく作るブログの構想でも練ろうと思うが、捗らない。お酒があまりおいしくないのも面白くない。結局、構想を練るのは止めにして、また喜多方の本を読んでみるが、楽しくない。それでもいつの間にかお酒を飲み干してしまっていたので、明朝も早いし、いつもよりも時間は早いが、早々に寝ることにする。
 拝借したお猪口を片付けに炊事場に行った。階段を下りて右手に炊事場があるが、階段を下りた目の前に戸棚の上に数冊のノートがあるのが目に入った。手にとって見ると、早戸温泉を訪れた人たちの感想や意見等を綴っているものらしかった。興味が出てきたので、少しの間だけと思って、全冊を部屋に持ちこんで読んでみる。旅行で早戸を訪れたときのことや、湯治でしばらく滞在していた人の感謝の言葉が連なっている。市井に暮らす人たちの、決して気取らぬ素直な言葉が並んで、人々の思いに触れるような気がして、涙が滲む。私はこれでも文章を書くのを趣味にしている人間だから、いくらかは自負もあるので、自分も一筆を啓上しようと意気込んだが、最近、文章を書く頻度が低くなっているので、自分なりの綴り方というものを忘れてしまっており、気の利かないただの感想ばかりを書いてしまった。文章を上達させたいなら毎日書くことだ、という言葉を耳にしたことがあるが、その提言は事実である。程なく就寝。すんなり寝付く。

 起床。いつもより早く目が覚めたが、列車の時刻もそれなりに早いので、朝の用事をしていくことを考えたら、このくらいでちょうどよかったのかもしれない。
 湯治棟の内湯で寝起きの凝りを解していく。昨日の露天ほどではないが、ここの湯舟からも只見川が見える。同じく朝湯に浸かりにきた他の浴客と挨拶を交わす。
 朝食にはまだ早い気がしたので、しばらくあたりを散歩してみる。思えばここを訪ねて以来、外をぶらつくような時間はなかった。近くに温泉神社があるみたいなので詣でようと考えた。エレベーターで下りた本館からだと近いようだったが、朝早い時間に本館は開いていないので、仕方がなく湯治棟からぐるりと回るようにして向かう。棟の脇を通り、小さな坂を下っていくと、只見川のほとりにぶち当たる。そこから左手に行けば温泉神社なのだが、ただ古い神社というだけで、見て何か面白いということはない。これからの道中の安全を祈願する。神社のわきに小屋が建っていた。源泉なのか、湯気の立つ液体を只見ラインに注いでいる。小屋の中からは人の声が聞こえるが、人の姿はない。その声はもしかしたらラジオから漏れているものかもしれないが、そうだとしても人の姿がないのはおかしい。少し薄気味悪かった。
 柏崎で調達したサンドウィッチで朝食とする。窓際で只見川を見下ろしながら、コーヒーを飲んでしばらく佇む。山の木々から発生する小さな霧が風に乗って流れていくのを見ていた。一時ぱらぱらと雨が降ってきて憂鬱に思ったが、しばらくすると霧雨へと変わった。傘を差す必要のない霧雨くらいなら許容できる。
 それから旅具を整え、部屋の後片付けを済まして湯治棟を後にする。出ていく際に管理人に何か言っておきたかったが、探しても見つからない。仕方がないので、一声「お世話になりました」と言い置いて、玄関戸を開ける。まずは、再びの早戸駅から列車に乗って会津若松方面を目指す。奥只見の朝は寒い。やはり簡単な羽織りものを持ってきて正解であった。


  六 ニューバランス
 トンネルを抜けて、早戸駅の歩廊に下りる。霧が落ちてくるような小雨はまだ止まないが、依然傘を差す程のものでもないので、上着のフードで頭を覆って凌いでいた。八時五十八分の会津若松行の到著を待つ。先日の雨で会津坂下―西若松間の線路が通れないらしい。その区間でも代行のバスが走るので心配はない。
 それよりも、会津若松に着いてから次の列車の時間までどう過ごそうかと考えるのだが、いい案が出てこない。私はここ数年来、何らかの機会ごとに毎年一度は会津若松を訪れていることになるので、興味のある箇所はだいたい見て回ってしまっている。いっそのこと一駅前の七日町で降りて、そのあたりを適当に歩いていた方が気晴らしになる気がする。
「すいません」
どこからか人の声が聞こえた。歩廊の左右を確認してみても、自分の他には誰の姿もない。
「すいません」
この声はどこからやってきている。フードを被っていると、音の方向覚がよく分からない。
 第一、おかしい。このあたりは自動車の往来こそあれ、歩いている人などまず見かけない山奥の地域だ。それなのに、生身の人が声を張るのが聞こえて、しかもすいませんなどと物乞いするようなことを言っている。これは、事であるに違いない。
「すいません」
 左右には誰もいないのが分かった。目の前には只見川が広がっている。そこから人の声が聞こえるわけがない。だとしたら背後だろうかと、振り返ってみると、果たして中年の男性が、車道の上からこちらを見下ろしている。何か伝えたいことがありそうなので、足元に近寄ってみると、曰く、この間の雨で電車は走らない。その代わりに紫色のバスが来て乗せるから、車道の方で待っていてください。その中年男性は会津川口方面の代行バスの運転手だった。
 おやおやと思った。運休区間があることは知っていたが、早戸はその範囲には含まれなかったはずである。そして実際に昨日は何事もなく列車は運転されていた。それが一夜明けて走らなくなるとは一体どういう料簡か。しばらくして、薄紫のバスに乗り込んだ。
「どちらまで」
「会津、いや七日町まで」
 このバスは、どうやらここから終点の会津若松まで各駅を巡っていくつもりらしい。西若松―会津若松間も運休しているというのだろうか。このわずかな区間はすでに山間を抜けて久しい街中の線路である。そのために雨の影響などあるわけがないのだが、それでも列車は走らないのである。只見線に乗る心づもりが、その半分以上の区間をバスに揺られる成り行きになってしまった。四年前の大水で途切れた線路は依然として復旧の兆しが見えない。そして幸いに無事だった線路も雨に弱く、ほとんどの区間で代替のバス輸送が行われている。これでは廃線しているも同然である。
 バス車内には思ったよりも乗客が座っていて、街に遊びに行くつもりのジャリガールたちや、オホホホホと笑う中年女性の旅行者一組などがいる。私が座る席と通路を隔てた向こうに若い女性が座っていて、ボーダーのカットソーにインディゴのデニムという合わせで、一眼のカメラを抱えて、時おり窓外に見える薄霧の奥只見を撮影している。まさかと思って足元を見ると、やはりニューバランスを履いていた。
 列車に乗れないのは真に残念だが、乗合バスでの旅というのも、私は決して嫌いではない。列車にしろバスにしろ、多くの見知らぬ人間が空間を共にし、お互いに多少は気にしているが最後まで見知らぬまま各々の目的地を目指しているというところがいい。
 また、列車に乗っていれば通り過ぎる駅はその歩廊の風景として覚えるのみだが、この日のように各駅をバスで廻ってみると、各駅舎の佇まいや周りの町並みの様子も目にすることができるので、別個の興味深さがある。
 会津宮下は早戸から一つ隣のところで、それなりに大きな駅である。街中に入っていくが、通りの家屋や店舗の軒に屋号を掲げている世帯が多いのが目につく。町は全体として寂れており、垢抜けない古い食堂もあったりして、一寸バスを降りて歩きたく思ったが、いけない。
 しばらく走っていると、乗合のマイクロバスは唐突に田畑を縫うように、農道へと入っていった。こんなに細い路を通らないといけないのかとヒヤヒヤしていたが、その行き止まりの広場に停車すると、驚くことにそこに駅があるのである。水田区域の農道の奥にひっそりとしている郷戸駅である。何の飾りもない石段を上ると歩廊がある。ただそれだけの駅である。この駅を囲んでいるのは、黄金色の稲穂が眩しい一面の田んぼのみである。こういう駅も残っているのかと少し度肝を抜かれるような心持であった。
 つげ義春先生ゆかりの西山温泉の看板にときめきながら見過ごしていくと、会津柳津駅に停まる。只見線沿線の中でもとりわけ大きな駅で、日本三虚空の一つの会津柳津福満虚空臧菩薩圓臧寺の最寄りである。町には、圓臧寺の門前として色々の土産屋や食堂がある。失礼を承知で言わせてもらうけれども、圓臧寺のような微妙な立ち位置の観光地にすがって、垢抜けない構えで商売をしている、こういった土産屋や食堂が、私の最も好むところである。会津柳津駅は木造の白い駅舎である。広場にSLの車両が展示されていて、これは写真に収めたいと思ったけども、バスの窓の反射が邪魔でうまく撮れない。そもそもSLを覆う屋根の柱がちょうどよくSLの顔を隠す。
 会津坂下に至る頃となると山道を完全に抜け、車窓からは平地の集落が見えるようになる。ここでもう一つのバスとの乗り換えがある。途中の駅を介さず、直接会津若松へと行きたい場合は向こうに乗車すればいい。私は七日町で降りるつもりなので、今までの座席に落ち着いたままである。
 七日町に到著したのは十時五十分頃で、当初の予定よりも二十分ほど遅いといった程度である。そもそもこの町で何も用事はないのだから、活動時間が短くなったところで困ることはない。短くなったら短いなりに過ごすだけである。会津若松へは十一時五十八分の快速AIZUマウントエクスプレスに乗って行く。
 七日町通りはレトロな町並みが魅力で、白木屋や渋川問屋などの老舗も軒を連ねている。見事な時代物の建築を多く見ることができて、歩いているだけでも結構な面白みがあるのだが、通りの風景に便乗して、懐かしさを模造した店なども時おり見かける。こういうレトロを新しく造り出しただけの店舗に深みなどなく、うわべを着飾った見栄坊のようで、少しも考慮する価値がない。通りの端のところにアンティークショップがあるが、売り物として品々を並べていることもあって、レトロではあるが、全体的に品が良くて、コテコテのいかにもな懐かしさを感じさせないところが清潔である。アンティークではないけれども、繊細な切り子のお猪口を買い求めた。
 七日町通りから少し曲がると、野口英世青春通りに入る。野口英世は猪苗代の生まれだが、ここ会津若松で若き日々を過ごしていた。野口英世が左手に火傷を負ったというのは有名な話だが、その時に手術をした会陽医院がこの一画にあって、現在は一階を喫茶店、二階を資料館としている。その資料館を訪ねてみたが、昔の医学書や医療器具などが展示されていることを期待していたのが、ほとんどが野口英世その人にまつわる資料ばかりで、全く面白くなかった。
 駅に戻ろうと元きた路を引き返すが、神明通りと合流するところの広場で何やら催し物が開かれていた。翌日から会津まつりが始まるので、それにちなんだものだろう。昔がたりの朗読劇がされていたが、いくら祭りの活気に当てられたとしてもこれは面白くないだろうと私が思っている一方で、そこに座っている聴衆たちは真面目に聞いている。だが案外、朗読が始まってしまって何となくそこから抜け出すことができないので、仕方がないからもっともらしい顔をしているだけかもしれない。広場には出店も出ていて、中々食欲をそそるようなものが供されていたが、それを売る人たちは、夜店の的屋というより、町のお洒落を発信していますとでも言いたげな面々であったため、一言も言葉を交わしたくないので、何も買わなかった。
 七日町駅に着く段に至ってもまだ時間に余裕があるので、近くの寺にお邪魔をした。新撰組の斉藤一の墓が建っている。幕末の歴史が好きというわけではないが、斉藤一は知っているので、墓石の前でしばらく手を合わせた。近くにいた男性数人の一団が、墓を見ても拝むこともせずに、向こうの方へと消えていった。そのまま現世からも消え去るべきである。
 目当てのAIZUマウントエクスプレスは会津鉄道の快速列車である。七日町―会津若松の区間を、会津鉄道は走っているのに只見線は走らないとは、いよいよわけが分からない。AIZUマウントエクスプレスなどと、いかにも特別な車両名であるが、実質はただの快速列車である。七日町から会津若松は一駅離れているだけなので、快速に乗ったからどうということはない。
 十二時二分、会津若松に着いた。次の列車はおよそ一時間後の発車だが、やはりここでも特に用事はない。時間としてもお腹が空く頃なので、軽くでも何かを食べようと思った。駅構内の食堂は気に入っているが、概して値が張る料理ばかりであるし、そこまで確りと食べる気もなかったので、立ち食いそばで済ませた。職人がこだわりを持って打つ蕎麦はおいしいはずだが、立ち食いそばもまたおいしいのである。同じそばとはいっても、両者はもはや別物だと言ってもいいほどに、それぞれの魅力を有っている。
 退屈なので改札をすませて歩廊に出たが、掲示板を見ると、どうやらこの日はフルーティアが走るらしい。私が会津若松を離れてからの発車なのだが、もしかしたら停車しているのを見ることくらいなら叶うかもしれないと思って気にかけていたが、結局目にすることはできなかった。
 これからは磐越西線で新潟無機終焉都市への帰路につく。次の列車は新潟までは走らないが、途中の喜多方に寄るので問題はない。十三時六分、野沢行の列車が発進した。


  七 喜多方独歩記
 十三時二十三分、磐越西線喜多方駅に着到した。初めて降りたが中々開けていて小ざっぱりとした駅である。外観としてはレンガ造りで、町の特徴に合わせた意匠になっている。
 ひとまず観光案内所で町の地図を手に入れて、あとはどこをどう見て回るかというところだが、喜多方に来たからにはと思い、代名詞である蔵が集まった通りを中心に歩いてみることにした。駅前の大通りを進んで途中で右左折をすると、そのふれあい通りに合流する。
 二度目の曲がりの際、交差点の角にラーメン屋があった。喜多方といえばラーメンも名物として名高い。そのお店は喜多方ラーメンの発祥と言われているため、お昼時の効果もあって、店の前には行列ができていた。ラーメンは気にならないわけではなかったが、列に並んでまで食べたいとは思わないし、そもそも会津若松で立ち食いそばを食べて、あまりお腹が減っていないので、行列を横目に見て通り過ぎた。
 喜多方は蔵の町と言われ、現在も実に二千六百棟もの蔵が建っている。なぜそれほど多くの蔵が造られたのかというと、これは酒蔵の人から聞いた話だが、喜多方では明治の時代に大火事があって町全体が燃えてしまったのに、蔵は燃えずに残っており、蔵の耐火性や耐久性が改めて評価されることになり、それから次々と蔵が造られることになったのだそうだ。また、この町では蔵を建てることが一人前の証とされていて、ただ建てるだけでなくその出来映えも重要で、旦那衆はこぞって趣向を凝らした立派な蔵を造ろうと商売に励んでいたのだ。
 ふれあい通りは、市街の中でもとりわけ多くの蔵が文字通り立ち並び、喫茶店や商店など様々な用途に活用されている。たくさんの旅行者の姿があるところを見ると、この通りが喜多方観光の主要な地域であるらしい。
 若喜商店という醤油の醸造元のレンガ蔵は、喜多方でも最も古い蔵の一つである。二階建ての蔵座敷になっていて、一階部は縞柿という珍しい木材をふんだんに使い、他にもあらゆる贅を尽くした間で、一般に公開されている。てっきり座敷に入れるものと思っていたが、立ち入りはできず、表からはガラス越しに、裏からは柵越しでしか見ることができない。柵に両手指をかけて、顔を近づけ網目の隙間に目をあててやっとのことで座敷の内部が見れるのだが、まるで囚人のような格好にそのうちに侘しくなり、屋外にいるのにこちらの方が閉じ込められているような肩身の狭さを覚えた。
 近くに酒蔵があるようなので、大通りから一本奥の小路に入った。午後になると日差しも強くなってきて、日なかを歩くのが辛いので、日陰を辿って歩いていくと、住宅の多い静かな地区の真ん中に、広大な大和川酒蔵がデンと構えていた。私は酒を飲むのが好きだが銘柄までは気が回らず、よって大和川と聞いてもよく分からない。杉玉の掛かる表門をくぐって蔵の中にお邪魔をする。受付に見学希望の旨を伝えると、案内は十五分ごとに実施しているが、ちょうどその時間であると言う。同時に門をくぐった男性二人組と共に、蔵内を案内してもらうことになった。
 主に三つの蔵を順々に巡って説明を聞く。説明と言っても、酒造りを最初から終わりまで辿って講釈をするといった小難しいことはせず、昔ながらの酒造りの道具や自社米についてなど、展示品について即時的に解説を付け加えるといった程度で、私のような素人にも易しい。終わりの蔵には、現在大和川酒蔵が製造している銘柄の酒瓶が横にも奥にも雛壇状にズラッと並んでいて、この世の楽園かと思った。ここに至ると、説明は商品の宣伝に移るのだが、最後に利き酒という催しが予定されているみたいなので、なんとなくの目星をつけてみる。そしてついに、門をくぐったときから待ち望んでいた試飲会が始まった。お猪口を一つ手に持ち、ありとあらゆる銘柄を試すことができる。いちばん辛いものやとにかく甘いもの、福島らしく桃のお酒も次々飲んでいくが、味は違ってもいずれも質は高く、すぐにいい気分になる。最高級の銘柄は有料であるが、当然のように頼んで飲む。酒の良し悪しなどよく分からぬ私でも、この銘柄は他のものと段違いに美味いことが分かる。酒をタダで飲ませてくれるのは実に有難く、いつまでもその恩恵に預かりたいのだが、それでも限度というものがあるので、そろそろと思ってごちそうさまでしたと杯を返したら、酒蔵の人から「あれ。もういいんですか」と言われたが、「いえ、もっと飲みたいです」とは言えず、旅中ということもあって、止めにしておいた。
 いい心持で街を歩くが、なんだかもう十分な気がして、そろそろ駅に戻ろうと思った。その中途で蔵屋敷美術館という施設に立ち寄った。この美術館は近くの旅館の持ち物である。この旅館の三代目が画商としても働いていたために、竹久夢二先生をはじめとする高名な画家との交流があり、多くの作品を集めている。蔵の内部を美術館として、それらの作品を展示して公開しようという運びなのだ。蔵の一階二階に作品が収められているが、小さいながらも蔵の中ということでそれだけに面白い。竹久夢二先生は周知していたが、浅学のためにその他の画家先生の名前は存じない。だが私は美術館という空間そのものからして好きな性分であるため、あまり気にしない。別に誰々先生の作品だからいいとか、そういう見方はしない。平福百穂先生と小林古径先生の色紙が並んで表具されてあった。平福先生は私と同じ秋田県出身の日本画家で、小林先生は今年の春に私が滞在していた新潟県上越市高田の生まれである。自分と少しでも縁のある画家の色紙が並んで飾られているのは、なんとなく嬉しいことである。
 ふれあい通りを外れる交差まで歩いてきたが、先ほどに行列ができていたラーメン屋の前が、だいぶすっきりとなっているのを発見した。時刻は八つ時だが、街中を歩きまわって小腹が空いていたし、そして何よりも私は先頃に日本酒を飲んでいる。酒を飲んだ後に食べたくなるのは、ラーメンというのが相場である。そもそも店はまだやっているのかが心配だったが、杞憂に終わった。相席を頼まれて、一寸嫌に思ったが、強く拒否する理由もないので、それに頷いた。見知らぬ若年男性と席を共にするが、その人は料理が待っている間はひたすらスマートホンに手垢をこすりつけていて、脳髄からの指令で指を動かしているんだか、スマートホンからの指令で指を動かしているんだかさっぱり分からない。勢いで店に入ってしまったが、戻りの列車に間に合うかがまた心配になった。ここから駅まではそれなりに距離がある。自分の料理が出来上がるのが遅れてしまった場合、食べてすぐに走らなきゃいけないのではないかとも思ったが、料理は何事もない時間で運ばれてきた。ラーメンにはチャーシュー二枚メンマ数本ナルト一片が乗せられ、ラーメンというより中華そばと呼びたくなってくる。喜多方ラーメンは平打ちの麺が特徴的なのだが、それよりも私はあっさりとした醤油だしのスープを気に入った。このスープの味も、ラーメンというよりは中華そば然としている。新潟で食べられる、流行りの背脂系統のラーメンも好きだが、こういう安っぽいオールドファッションとしてのラーメンも魅力的で捨てがたい。
 通りを歩いているときに気になっていたが、商店の看板に夢心という酒の名前が載せられている。夢心といったら、内田百閒先生の「東北本線阿房列車」である。この中で、百閒先生が福島で飲んだ酒というのがこれに違いない。作中では、「いねごころ」なんだか「よめごころ」なんだか、結局酒の名前は分からずじまいだったけれど、「夢心」が正式だったようだ。身の程知らずで莫迦列車などと自称している身、百閒先生への敬意を込めて、駅前の土産屋で夢心を一瓶求めた。
 喜多方から新潟までは、十五時五十一分のSLばんえつ物語号で戻り返す。新潟無機終焉都市で生活を始めて以来、会津若松方面に用事があれば、往きか復りのいずれかで必ずこの機関車に乗っていた。私の新潟暮らしは今年で最後だと思われるので、もしかしたら私がこの列車に乗るのは、この日が最終であるかもしれない。
 SLが駅に到着する瞬間は、集まる人々の期待感で歩廊が華やぐ。優美なる貴婦人が、黒煙をあげて近づいてきた。










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  1. 2015/10/03(土) 19:59:51|
  2. 旅行記
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筆者紹介

シバケン-いかれたNeet-

Author:シバケン-いかれたNeet-
Sex:\(`・ω・´)
Work:堕医学生
Base:新潟死期終焉都市

趣味はお散歩、特技は悪だくみ

筆者結語

日常系赤面ブログ「野良犬の生活」を応援していただきありがとうございました

「野良犬の生活」の物語

 はじめましての皆さんへ

長い間ありがとうございました

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